銀河鉄道の夜

2017年11月14日 読書
銀河鉄道の夜
銀河鉄道の夜
銀河鉄道の夜
銀河鉄道の夜は宮沢賢治の死後に発表された童話。
なんども章の順番が入れ替わり、削除されて今の形になったもの。
ジョバンニとカムパネルラが旅する中で暗号のような言葉、抽象的な表現が多く出てくるのでわかりにくい部分も多いけれど、そのわかりにくい部分が魅力だったりする。
賢治は生前友人に自分の文章がわからなくて当然というようなことを言っている。すべての人にわかってもらいたくて書いているのではないからである。

文章でも音楽でも他の人に受けるように書くものと、自分のために書くものとでは大きく違う。
賢治が親友だった保阪嘉内と自分のふたりにしかわからないような言葉を散りばめて書いているのが銀河鉄道の夜なのかもしれない。

賢治はお坊ちゃん育ち、奇人に思われることもある淋しい子供だったと言われている。
生前に書いた手紙が多く残されているが、個人的な手紙の中で飛びぬけて数が多いのが賢治が学生時代に参加していた同人誌「アザリア」の仲間のひとり保阪嘉内に宛てられた73通。

大正5年盛岡高等農林学校の自啓寮南9号室の室長になる。室長は優秀な学生の中から選ばれる。
同じ寮に入室したのが保阪嘉内。
それまで文章を発表することもなかった賢治が静なら嘉内は動。様々なものに興味を持って賢治の見識を広めてくれた嘉内に影響を受けていく過程が残された文章でよくわかる。
そのうえで、銀河鉄道の夜を読み返すとジョバンニ=賢治、カムパネルラ=嘉内の構図が一目瞭然に思える。
宮沢賢治が聖人君子ではなく、ひとりの人間として浮かんでくる。
ストイックでもあり春画のコレクターでもあり、知的でもあり世間知らずでもある人間らしい魅力を感じずにはいられない。

賢治と嘉内が最後に会ったのは大正10年7月18日。帝国図書館の3階。そこで仲たがいした二人は結局死ぬまで会うことがなかった。
手紙のやりとりは後も続いていたが賢治からの手紙は嘉内が結婚をした3か月後に出されたもの以降は見つかっていない。
出されなかった手紙の中に嘉内宛てであろうという下書きはある。

帝国図書館は現在は国立国会図書館国際子ども図書館と名前を変えて残っている。

菅原千恵子「宮沢賢治の青春」がBL認定みたいで面白かった。
ブックオフで保阪嘉内側から見た「心友」を読んだけどいまいち。すぐに戻した。

甲斐に行く万世橋の停車場をふっとあわれにおもひけるかな
1916年8月17日 保阪嘉内あて 封緘葉書
交通博物館のあった場所が万世橋停車場。嘉内のいる甲府まで甲斐鉄道の始発がでていた。

われはダルケを名乗れるものと
この詩は帝国と書簡での嘉内との決別のこと

3階の大きな窓のことらしい

圖書館幻想
室の中はガランとしてつめたく、
せいの低いダルゲが手を額にかざしてそこの巨きな窓から西のそらをじっと眺めてゐた。
ダルゲは灰色で腰には硝子の蓑を厚くまとってゐた。そしてじっと動かなかった。
窓の向ふにはくしゃくしゃに縮れた雲が痛々しく白く光ってゐた。

自分の道を進みだしたのちの話
ベートーベン100年祭レコードコンサート 花巻農学校を退職間際に開催


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